宿題はちゃんとやりましょう

作文が苦手だ。子どもの頃から得意ではなく、読書感想文の類は全くと言っていいほどやらずに来た。やりたくない宿題は徹底的にサボる性格で、小学校ではかなり問題児として扱われた。

大人になってからも文章を書くことに一定の抵抗があり、大学のレポートも恐ろしいほど苦手だった。あまりにも出せなくて学科で未提出が私だけになり、廊下に「山森専用」と書かれたレポート提出ボックスを作られたこともある。

一方で、日記を書くのは好きだった。子どもの頃にもブログを書いていたし、大人になってからも毎日日記を書いていた時期がある。だから決して文章を書くことそのものに抵抗があるのではないと思う。一体どこに違いがあるのか。

決定的な違いは、誰が読むか、だ。自分の書いた文章を知っている人に読まれるのがあまりにも嫌だった。自信がないのだ。


作文や読書感想文では構成の上手さやどういう感想を抱いたかが、講義のレポートでは構成や学問の理解度が見られる。授業などの枠で実施される以上仕方のないことだが、とにかく私にはそれが耐えられなかった。おもしろくなかったともわからないとも言えないうえに、おもしろかったふりもわかってるふりもできないのがつらい。

自由に書くのも苦手だ。自由であることは最もその人の内面が見えてしまう。自分が好きで書いた文章を「おもしろくない」「上手くない」と思われるかもしれないという恐怖に耐えられない。自分がおもしろくない人間であることが知られるのが怖い。才能がないことに気付かされるのが怖い。答えのないはずのことに、点数をつけられるのがつらい。

だったら何もせず、息だけして一生を終えるのが一番良い。誰にも褒められない代わりに誰にも貶されない。喜ぶこともないが悲しむこともない。

そう思って静かに過ごしていたが、友人の影響で「自由に書く」に挑戦することにした。影響というか、友人が創作を通してしか交流できない人で(ちょっと盛ってる)私のことを知ってもらうには文章を書くしかなかった。私は感情を絵にも音楽にもすることができない。(中学の美術の成績は万年2であった)


そんなきっかけでうっかり筆を執った私は、いざやってみると書くことでこんなにすっきりするのかととても驚いた。アイドルになりたかったこと、人に合わせようとしすぎてしまうこと、夢に一歩踏み出せなかったこと、新しいものを受け入れられないこと。あらためて書き出してみるとネガティブなことばかりで、時に涙を流しながら書くこともあったが、私はこれらを言葉にすることで気持ち整理し、これからどうしたいのかについて考えることができた。

嬉しいことに、友人や同僚が思いがけない良い反応をくれたり、長く連絡を取っていない古い友人がリアクションをくれたりした。会いたいと言ってくれる人もいた。書かなければ一生表に出なかった思いが、遠くの人やこの先出会う人にも届けられるのが嬉しい。ただただ私が死んでも誰かの記憶に残りたい。

だから、自由に書くことにした。最初に書き始めたときは「何文字くらいで」とか「話が二転三転しないように」とか考えていたけど、やっぱりやめた。これは私が私のために書く。もちろん読んでくれる人がいるのは大変嬉しいし、誰かに向けて書くことはあるだろう。だけど、それを気にしすぎないことにする。

書き続けていつか、ネガティブなことを吐き出しきって、ポジティブなことを書けますように。