愛とか恋が消えた世界に逆らって

僕らは 歩いていた
砂嵐の 惑星を
冷えていく 体温を 抱きしめていた

愛とか 恋なんて
古ぼけた 惑星で
1000年前の歌を 口ずさんでいた

―― 『誰も知らない歌』 / 原因は自分にある。

30XX年など、おおよそ1000年後の未来を舞台にした作品というものはよくある。ここで描かれる地球の描写としては、大きく2種類にわけられると感じる。この歌詞に見られる荒廃した廃墟のような茶色い景色と、高層ビルが多く並び空飛ぶクルマが飛び交う青緑色の景色だ。どちらが地球の未来として可能性あるんだろう?と考える。


そもそも今我々が生きているこの時代とそんなに景色が変わることがあるのかという話。今から1000年前を振り返ると、人間の姿形に大きな変化はないが、町の景観、科学技術、人間の健康寿命など、大きく変化している部分はある。芸術分野でも、日本では平仮名ができて物語文化が発達した。絵はたくさん残っているが、今のような漫画絵は存在しない。さらに1000年遡ると、日本ではまだ土器などを使っていたので、今から1000年後の未来が、今と全く違う景色でもおかしくないだろう。

荒廃した世界になるか、発展した世界になるかは、人口の変化が大きく影響すると考える。たとえば、人口が増えた場合。土地が足りなくなり、居場所を作るには建物を上に広げる必要が生まれる。また、多くの人を輸送するには陸路だけでは足りず、現在の旅客機のような航空機では短距離輸送には向かないから空飛ぶクルマが発達するだろう。技術的には空飛ぶクルマは近い将来だと思うが、今空飛ぶクルマが必要なのは離島の移動が主だと思われる。反対に人口が減った場合は、廃墟が生まれ、その土地を再開発する必要がなければ廃墟は放置され増えていくだろう。更地がこのまま森林が少なくなっていけば砂嵐が舞う荒廃した土地になるかもしれない。


愛や恋はなくなるだろうか。このまま少子化が進めば、恋愛結婚が主流でなくなり、何らかの方法で定められた人間と婚姻を結び子孫を繁栄させる未来もあり得る。婚姻制度などなくなっているかもしれない。男女が平等とされるようになり、恋愛結婚が主流になったのもつい100年くらい前のことだが、それが発達しすぎても、人間の未来は廃ってしまうだろう。そもそも人間は知能を持ちすぎてしまったのではないかと思う。自らの感情に支配され、他人の感情を意識し、"本能的に"行動するやつはバカだとさえ考えている。「生きづらい」などという感覚も人間特有ではないか。

愛や恋がなくなれば、人は"本能的に"行動し、子孫を繁栄させるだろうか。それとも、他人と交配しなくなり減衰していくだろうか。アダムとイブが禁断の果実を食べたことで始まった人類の歴史であるはずなのに、愛がなくなってもまだ我々は"人間"であるのだろうか。


『誰も知らない歌』は、1000年前に書かれた片思いの歌を見つける物語だ。1000年前に書かれた『万葉集』や『枕草子』を我々が今も大切に読み継いでいるように、作品が1000年以上残ることはある。未来の環境がどうであっても、その中に生きる誰かに大切にされるような作品が残せたら、作家として人として幸せだと思う。人間が人間でなくなるその瞬間まで愛される作品を作りたい。